邪馬台国論争と青い眼の人形

4月19日、南都銀行創立80周年記念セミナーの第1回として、「邪馬台国論争とは何か―日本史の深淵―」が奈良女子大学講堂でおこなわれました。演者は、奈良女子大学の小路田泰直教授で、聴衆は600人にも達する盛況でした。小路田教授のユーモアを交えての講演、近代史家が語る邪馬台国論は魅了されるものでした。特に、1910年の内藤湖南、白鳥庫吉による有名な邪馬台国論争が、なぜこの時期におこったのか、に対しては、当時の日本の国際的な立場と深い関わりがあるとの近代史の視点からの分析は、新鮮で鮮烈でした。日露戦争後、わが国はロシア、アメリカなどの列強に対して危機感をもち、1907年帝国国防方針を制定し、一方では、わが国が中国文明の影響を受けない固有の文化を発展させた国家であることを内外に示し、国威高揚に努めはじめた時期と言います。内藤・白鳥論争は、わが国の固有な国体を誇示するものであったと説かれました。日米関係の緊迫感に融和を図る逸話として、小路田教授はワシントンの桜を例にあげられました。1912年、3000本余の桜が日本からワシントンD.C贈られ、時の大統領タフト夫人の手によって植樹祭が行われました。

関連して思い出すのは、1927年にアメリカから日本へ贈られてきた1万2千体以上の「友情の人形」のことです。日米間に高まった政治的緊迫を緩和しようとアメリカの宣教師と日本の渋沢栄一の努力で、全米から集められた人形がはるばる船に乗って送られてきました。横浜では、盛大な「青い眼の人形」の歓迎式典が催され、皇室への献上をはじめ東京博物館への寄贈、全国の小学校などに配られ、ガラスケースに収められて校長室や図書館に飾られたといいます。童謡「青い眼の人形」は、これより数年前に野口雨情の詩が発表され、本居長世が作曲して広く歌われており、「友情の人形」は「青い眼の人形」と呼ばれるようになったそうです。従ってアメリカから贈られた人形は、童謡の歌詞の「セルロイド」製ではなくビスク(素焼き)製でした。このような民間レベルの努力の甲斐もなく、やがて日米戦争に突入しました。青い眼の人形は敵性人形として多くが焼却されたということです。

ワシントンの桜も、青い眼の人形も、このような時代的背景をもち、悲しい運命に見舞われたのです。当研究所がマネージメントしている金魚カフェ柳樂屋(大和郡山市柳町商店街)では毎月1回「みんなで楽しく歌いましょう」を開いており、その7回目に「青い眼の人形」が登場しました。毎回専門の先生のご指導で、懐かしい歌を参加者と共に歌っていますが、「青い眼の人形」の歌詞を調べるうち、上記のような時代的な背景が浮かび上がってきました。ある時代に流行る歌は社会の鏡といえるでしょうか。美空ひばりの東京キッド、笠置シズ子のブギウギなど、戦後の巷に流れた歌は、うち沈んだ日本人の心を浮き立たせたこと、海外旅行などとんでもない時代に岡晴夫は「憧れのハワイ航路」を明るく歌い上げ、その後の日本人のハワイ旅行好きの先鞭をつけたことなど、歴史書には載らない、時代を動かす大きな力が、歌にも民衆にもあったことに気づかされます。懐かしい歌を、その時代的背景を読み取りながら歌えば、同時代人の心情に没入していくのを感じます。


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